師匠とその弟子(1)

         セクハラ師匠、熟女にテンカラを教える

 

ミスマッチなタックル

 パソコンにメールが入ったのは昨年の2月中旬だった。時候の挨拶から始まって、突然のメールで失礼なこと、私のホームページからアドレスを知ったことを簡潔に述べたあと、テンカラをはじめたばかりで、昨年、見よう見真似でやってみたが、結局1匹も釣れなかった。今年挑戦したいのでぜひ教えてほしい。ちなみに女性であるという内容である。「女性」というところで私はすっかり舞い上がってしまった。

 とうとう私にも女性の弟子ができる。苦節十年、男ばかり相手にしてきた暗い経歴に一条の光が…。しかも文章からして落ち着いた熟女の雰囲気。もちろんウェルカムメールを速攻で送ったことは言うまでもない。

 何度かのメール交換の後、初めて会ったのはゴールデンウイークも近い日曜日、岐阜県石徹白川でのことである。ここにはC&R区間があるし、トイレもあるので女性向け。ここなら1匹ぐらいは釣れるかもと思ったからである。

待ち合わせの駐車場へ時間をやや遅れてピンクのホンダN-BOXが着いた。ピンクの車と聞いていたので彼女の車だとすぐにわかった。どんな人だろうか? 降りて来たのは歳の頃は四十に届くか大台に乗ったかというまさにアラフォー熟女。髪を後ろでキリリとまとめ、うす化粧したその人はメールから想像したイメージとたがわず「うーん、タイプ!」と思ったのだった。初対面の挨拶を交わしつつ、すかさず左手に指輪がないのをチェックした。ひょっとして独身?と期待はさらに膨らんだのである。名前は仮にTさんとしておこう。

Tさん、私があなたの師匠、あなたは弟子になるけどいい? と訊いてみた。「すべておまかせします」という返事。「すべてをまかせる」の一言で、ますますやる気になった師匠である。

とりあえずキャスティングをみせてもらった。タックルは細いヤワヤワのテンカラ竿に、黄色いフライライン、ハリスの先には毛虫のような毛バリをつけたものである。ラインでペタンペタンと水面を叩いている。師匠はたまらず早くも口を出した。

師匠「そのタックルはミスマッチだね。柔らかい竿と重いラインでは、ラインの重さで竿はブレるし、フッキングは悪いし、そのタックルでは上手くならないよ。メールでフロロカーボンのレベルラインを買ってキャスティング練習するように言っておいたでしょう?」

弟子「ええ。一度、言われたとおりに釣具店でレベルライン下さいといったの。そうしたら店員さんがレベルラインという名前の商品はないっていうので、私、全然わからないから用意していないし、練習もしてきてません。今日は師匠におんぶにダッコで来ました」

いくらでもおんぶにダッコしてあげるけど、と師匠は思ったが、とりあえずこういうこともあろうかと竿とレベルラインを用意しておいた。竿はシマノ渓流テンカラを3.4mにして、レベルラインは4号を3.5m、それにフロロカーボン1号のハリス1mである。毛バリは見やすいにように白いハックルの毛バリである。

おきまりのキャスティング練習だが簡単に飛ぶわけがない。まず私が見本を見せてTさんに振ってもらったが、例によって足元にワナワナと落ちるだけである。まっすぐ突っ立ったまま、腕は棒のように伸ばしたポーズである。

師匠「その構えはハイルヒットラーの敬礼ポーズか、自由の女神ポーズじゃない。もう少し肘を曲げて竿先でラインを引っ張るような感じで‥‥」というのだが一向に要領を得ない。じれったくなった師匠、ここぞ役得、待ってましたとばかりに手に手を添えようとしてハッと手が止まった。手袋をしているのだ。

弟子「そう来ると思ったので手袋してきたの。抗セクハラ手袋なの」といいつつ師匠をみてニヤッと笑う。うぬ! 師匠の趣味を調べてきたのか。ええーい、この際ひるんではいけないと、しなくてもいいのに左手で肩を抱き、右手を添えた。手を添えてイィーチ、ニィというリズムで振ってやればそのときだけシュッと飛ぶのだが、手を離すとワナワナとなる。手を添えればできるところはまさに子供の自転車練習のようである。

師匠「ところで、どうしてテンカラを始めようと思ったの?」

弟子「ええ私の主人が鮎をやるんです。それで私も鮎を始めたんです。鮎をやるまで釣りは全然やったことがありません。鮎だけじゃなくて、いろいろな釣りの本を読んでいるうちにテンカラを知って、なぜか急にやろうかなと思ったんです。師匠の書いた本も何冊か読みました。【科学する毛バリ釣り】は面白かったですね。仕事関係の人がその本を持っていて、パラパラめくったら面白そうなので借りて読んだんです」

本をほめてもらったことはうれしかったが、なんとご主人がいる。結婚していると知って急にクラクラと力が抜け、すぐにでも帰りたくなった師匠であった。Tさんの目がいたずらっぽく笑っていた。ますます私の趣味を知っている。

キャスティング練習で午前中を費やしたがほとんど成果はなかった。女性だからだろうか。それとも天性の才能に恵まれないのか。ともかくまったく進歩がないままキャスティング練習は終わった。 

ライズ? ポイント? 

午後の部はとりあえず実釣である。どこに立つか、どこがポイントかを教えるが、テンカラ初日でわかるわけがない。それでもまぐれに1匹でも釣れればという思いからである。これまでアマゴは写真でみただけで、毛バリは2時間くらいペタペタ振っただけ。だから私が言っていることが全然わからないという。あれほどメールでお願いしておいた予習もしていない。あまりに勉強不足の弟子に師匠は語気を強めて言った。既婚と知って教える気が少し失せたことも影響しているようだ。

師匠「あのねぇ。魚と遊ぼうと思ったら魚のことを少しは知らなくっちゃ。どんな習性があるかとか。せめてアマゴとイワナの違いぐらいは見ただけでわかるようでなければ」

弟子「アマゴとアナゴの違いぐらいはわかるんですが‥‥」

師匠「私はアマゴも好きだけどオナゴの方が好きです。アマゴにも、オナゴの習性にも詳しいけどね」

弟子「アネゴはアマゴの仲間なんですか?」

師匠「アネゴはオナゴのひねたのを言うんだ」

弟子「それではアマゾネスというのはアマゴのメスのことですか?」

いいかげん面倒になった師匠がそっと目をそらしたとき、対岸の石の前に小さなライズを見つけた。

師匠「そら、今、ライズがあった。見えたでしょう。ちょっとやるから見てて。対岸に石があるでしょう。あそこの下のイワナがライズしたと思うんだ。ちょっと見てて」

といって、師匠はその石を竿で示して、サッと毛バリを振った。待ってましたとイワナが出た。師匠は弟子がその一部始終を見たはずだと思ったのだが、弟子はアサッテの方を見ている。釣れたよ!という声で、はっと師匠の方を向いて言った言葉が「これってウグイですか?」 

師匠はがっかりして、今、そこでライズがあったから‥‥という経緯を説明したのだが、ライズとは何か、どこがポイントになる石なのか、毛バリはどこに落ちたのか、どこを流れているかなんて全然わからないうちに師匠が釣っていたというのだ。イワナとウグイの区別がつかなければ、ライズもポイントもわからないのは無理もないか。

そんな弟子にも1回だけアタリがあった。大岩のエグレの巻き返しでグルグル廻っていた毛バリをアマゴがくわえたのだ。毛バリを吐き出そうとキリキリ舞いしているアマゴのキラメキが見える。

師匠「そら、そら食ってる。合せて!」

弟子「え? え? どこどこ?」

師匠「早く合せて、早く」と大声を出したのだが、わけのわからない弟子が例によってヒットラーポーズで竿をズルスルと上げたのはアマゴがとっくに毛バリを離した後であった。

師匠「今、食ってたのわかったでしょう?」

弟子「えぇ? 今、食ってたんですか? 食えばグイグイ引くんじゃないんですか? グイグイ引くのがアタリと思ってたんです」

師匠「あのねぇ‥‥」

師匠はそこから「アマゴはね、毛バリをくわえたら‥‥」という講義をひとくさり話したのだが、わかっているのかどうなのか、今イチ反応のない弟子にテンカラを教えることの難しさをつくづく感じたのであった。

C&R区間のポイントを一つ一つ説明しながら遡行していく。途中でちょっと流れのキツイ瀬を渡ることになった。男なら難なく渡れる瀬だがTさんは足が前にすすまない。恐いというのだ。

師匠「大丈夫、私が手を引いて身体を支えてあげるから」

弟子「それが恐いんです」

師匠は強引に手を引いて渡ろうとしたが、どうしても前に足が出ないのだ。さすがにオンブにダッコは出来ないから、結局瀬を渡れずに一旦道路まで上がってまた降りるハメになった。男でも瀬渡りをためらう人もいるから、ましてや初めてで、しかも体力のない女性ではハンディになるのはやむをえない。

春のうららかな陽も西に傾いて夕まずめの時合いになった。時合いを見越してちょっと大きめな淵の前に着いた。今日のこの時間なら絶対に出るに違いない。案の定、すでに小さなライズが始まっている。

師匠「見たでしょう。あれがライズ。水面や、水面直下の虫を捕食しているんだけど、どんな場所でライズをしているか憶えておくといいよ。ライズする場所は大体一定しているから」と言ったものの、わかってないだろうなという気持ちがよぎったのは言うまでもない。

師匠は「ちょっと見てて」と下手から大きな身体をかがめながら射程距離にジリジリにじり寄って、ライズの前1mほどに毛バリをポトリと落とした。

師匠「そら来るよ。そら来た!」

 アマゴが全身をさらけ出し、飛沫を上げて反転しながら水中に没したのと同時に、ガツという音とともにアマゴが再び水面でバシャバシャと跳ねた。Tさんは「わぁ、掛かった」とおおはしゃぎである。一日テンカラを振ってみて、どこに毛バリが落ちてどこを流れているかが少しわかったようで、バシャッっと反転した瞬間がはっきり見えたという。

師匠「あれがアマゴのアタリ。あぁいうアタリばかりではないけどね。出たと思ったら、ほんの一瞬間を置いて合せればいいんだ」とアドバイスする。

 師匠は「やってみて」とポイントを譲った。弟子はライズがあった前に毛バリを落とそうとしているものの、ともかく毛バリが思うところに飛ばないのだ。何度も毛バリを打ち返しているうちにライズもなくなってしまった。

師匠「ライズがなくなったでしょう。毛バリで叩きすぎたからだね。へんなところに毛バリが落ちるからすっかり警戒したからだと思うよ」

弟子「もうダメなんですか」

師匠「まだまだ。今度は上流に廻って、上流から下流に流してちょっと誘いをかけてやれば出るよ」と言って、上流から毛バリに誘いを掛けながら釣る方法で1匹掛けた。秘伝まで教える師匠である。

 「そらやってごらん」と弟子に場所を譲ったものも、時合いとあって20cmほどのアマゴがピョン、ピョンと出はするが、相変わらずのヒットラー合せのためかタイミングが悪いのか、出るのに全然掛からないという、初心者の誰もが経験する入門1日目の終了時間が来た。

 すでにライズは終わっていた。石徹白の集落の灯りが1つ、また1つ灯り、周囲の山々は黒いシルエットに変わっていた。

毛バリ談義

 再びTさんからテンカラを教えてほしいというメールがあったのは9月に入ってからである。夏の間はご主人と鮎をやっていたようだ。鮎がそろそろ終わりなので、テンカラの虫がうずいてきたらしい。うずくのは私も同じ。では行きましょうとなったのは長野県の開田高原である。プチビラMTおんたけをベースにすればトイレの心配がないからだ。

結局、前回から1回もキャスティング練習はしなかったそうである。そのためキャスティングは相変わらずのポーズであるが、多少ラインが飛ぶようになったこと、自分でポイントを探して積極的に毛バリを打っていく点で前回に比べて進歩が感じられた。今日はひょっとして釣るような予感がした。2回目とあって余裕が出たTさんは、師匠と自分の毛バリの違いに気づいたようだ。

弟子「師匠の毛バリは黒ですが、どうして私のは白なんですか?」

師匠「初心者には毛バリがどこに落ちたか、どこを流れているかがわかるように白いハックルの毛バリがいいんだ。そのために白い毛バリを使ってもらっているの。でもね、いつまでも白い毛バリを使って毛バリを見よう、見ようとしてはダメなんだ。毛バリは魚が見るもので、釣り人が見るものじゃないからね」

弟子「師匠は、毛バリは魚が見るもの、釣り人が見るもんじゃないと同じことばかり言ってますね。ネタがないからですか?」

師匠「ネタなら、寝た子も起きるようなオヤジギャグはいくらでもあるよ。ハリにこだわるなというのはテンカラの憲法第1条だから何度も言うんだ。テンカラでは毛バリを信じることが大事。だからこの毛バリでは釣れないのでは? と疑うことを疑針暗鬼と言うんだよ」

弟子「では自分の毛バリは絶対に釣れると疑わないのを針過剰というんですね」

師匠「人からもらった毛バリなんか で本当に釣れるだろうかと思うのは半針半疑とも言うね」

弟子「1本の毛バリだけで集中して釣るのを一針不乱…」

師匠と弟子のダジャレは際限なく続くのであった。なにせ今日は禁漁間近の日曜なので釣り人がひっきりなしに川を渡る。Tさんには先行者がいて当然で、先行者がどこに立って、どこを歩いたのかを憶えておくこと。直前に歩いたところは出ないこと。そして、誰も毛バリを打ってない目残しのポイントに毛バリを打つように教えておいた。とうとうTさんに釣れるときがやってきた。

師匠! 師匠!と呼ぶ声がする。Tさんの方を振りむけば、今まさに取り込みの最中である。竿の曲がりからして25cmは越えているだろう。しばらく魚に主導権をとられて、バタバタしていたが、やがてタモの中にゆっくり魚体を横たえた。

弟子「師匠! 釣れました。ウレシイです。本当にうれしい。アマゴです。ウグイではありません」

聞けば向こう合せで掛かったらしいが、喜ぶ姿を前にして、釣れたと釣ったの違いを言っても興ざめである。駆け寄った私は「よかった。よかった。私もウレシイよ」とすかさずTさんの手を握ろうとしたが、今日もTさんはセクハラ手袋をしていたのであった。

おわり