イワナの出口
イワナの出口、アマゴの入口
さしもの冬の寒さもすっかりやわらぎ、陽光の春の陽射しにやや戸惑いを感じた4月の初旬。芽吹きにはまだ間があるとみえて木々の芽は固いとある渓流でのことである。そこは長野県を流れる天竜川の一大支流で、南アルプスの聖岳を源流として西南に流下する私の在住する豊田市からは遠い山の向こうにある川である。私は渓流の雑誌に川の名を出すのは好まない。渓流の名が出たのを機に釣り荒れてしまった川が無数にあることを知っているからだ。そんなわけで川の名前をここに書く勇気はないが、ここから推測してほしい。推測するも何も、誰でもわかる。
その渓流でイワナの出口に遭遇したのである。イワナの出口? 出口岩魚? 秋月岩魚さんは有名な写真家だけど? イワナの荒食いのことである。かって職漁師は、イワナが荒食いすることをイワナの出口と呼んだというのをある本で目にしたことがある。
イワナの出口があるなら、それならアマゴの入口はあるのか。ヤマメの裏口はあるのか。ニジマスの勝手口はあるのか? やい、こら! なんて怒らないで。そう言われていたんだから。
堰堤の上流は広大な河原が続き、いくつかのカープを曲がるとやがて道路に沿った流れとなる。今日は3人組で来た。例によってアッシー君を務めてくれるスズヤンとその友人とである。友人はほとんどテンカラの経験はないようだ。4月の初旬とあって朝イチはまだ早いだろうと、その日、車のエンジンを切ったのは朝の9時半をまわっていた。日曜だから釣人が多いのは覚悟していたが案の定、餌釣り師らしき車が堰堤からここまでの間に数台あった。
朝方は冷えたが陽も上がったこの時間には肌を刺すかすかな風はむしろ頬に心地よい。晴天である。山の端に今朝のなごりの雲があるものの、それが消えるのもまもなくであろうが、それは春に特有の午後になれば風が出ることを告げているのであった。
3人で淵を覗き込んだ。いるいる。この淵は車を止めた地点からゆるいカーブを3つほど下ったところにある淵である。左岸のコンクリート護岸に当った流れが4、5mの瀬となり瀬の下流には15mほどつづく小ジャリの開きを造っている。開き出しの手前には2mほどの石が沈んでいて、その石が魚たちの格好の隠れ場になっているようで、開きに出ては石に添う魚の姿がきまってみられる淵である。
上から覗き込む我々の姿は見えないとみえて、この日も5mほどの高さのガードレール越しにみた淵にはひとめ十余匹のアマゴが固まっていて、隠れる様子もない。この前の日曜に見たときには開きの、それこそ足首の深さしかないような場所にも散っていたが、今日はなぜか上流を向いたまま十余匹のアマゴは、ときおり上がったり、下がったりするのがいるものの、この前のアマゴの動きに比べれば別のアマゴかと思えるほど動きが鈍い。
上から覗くアマゴのサイズはほとんど揃っていて20cmは越えているが、上から見て小さいように見えてもこれでも25cmは越えているに違いない。なぜならこの前の折り、開きでライズしているのを釣友が掛けたそのアマゴは26cmだったからである。これだけいればこの淵で悪くても1つは出るだろうと、私もスズヤンも心の中でそう思ったのだった。
イワナ、イワナ、イワナ
私は下流に歩いて下り赤い橋から入った。この橋の上流で右岸から来る支流が合流する。今日の私の目的はホームページに載せる魚の写真を撮ることである。できればアマゴの写真がほしい。この時間は陽はいまだ山陰で、モノクロのトーンが水面を支配していた。これなら出そうな気がする。
深い左岸の砂地に刻まれている深いウエィダーの跡から先行者が2時間前に通ったことは容易に想像できた。左岸はダメだろうからと、流芯より右岸に狙いをしぼることにした。一抱えある石からこぼれ落ちた一条の流れが石の下にわずかなくぼみを造っているその横からサッと動く陰があった。数投目である。
スッと竿が立った。力むことなく竿が自然に動いたその先にはドロッ、ドロッとした動きと引き。イワナだ。内心、アマゴの期待が外れて取り込みがおざなりになりかけたが、写真の素材としてとりあえずは確実に取り込もうと切り替えるまでに時間を要しなかった。23cmの細身のイワナである。写真をとってリリースする。
イワナといえど写真が撮れたことでホッとした心の動きにかすかに苦笑。再度、毛バリとハリスを点検して、その上流の今度は右岸すれすれにあるポイントに毛バリを落とす。これは1発で出た。またイワナである。先の奴と同じように細身だがサイズは25cmを越えている。
どのみちリリースするのでできるだけイワナにダメージを与えたくない。かろうじて口が水に浸かる深さに横たえて写真を撮ろうとするのだが、こちらの気持ちなど知るよしもなく、もがき暴れるイワナの写真を撮るのに2分ぐらいは要しただろうか。やっとのことでパチリ。この後もほどなくしてイワナが掛かる。またまたイワナだ。そして次もまたイワナである。どうしたことだろう。ここはむしろアマゴの方が優勢のように思うのだが。ここまで掛けたのはすべてイワナである。数は数えなかったが「つ」は越えたかもしれない。
上流にスズヤンの姿が見えた。スズヤンはアマゴの群れていた淵の下流から入って、そこで粘っていたようだ。いつの間にか追いついていた。淵は全然ダメだったそうである。まったく反応なし。あれだけのアマゴなら1つや2つ、1回や2回毛バリを追うのがあってもよさそうなものにまったく気配なし。それに引き換えイワナの反応はよかったそうである。ほんの短い間で6つほど掛けたそうだが、彼もリリース派なので数は正確には憶えていないという。
アマゴの遠慮
こんなにイワナが出る日は珍しい。私の経験でもこれまでなかった。よし、それなら一体いくつ釣れるのか数えてみることにした。車でそこから1キロほど上流に移動し、左岸から入る支流との合流点からカミ、シモに分かれた。私は上流に入った。ここから上流は車ほどもある大きな天竜の赤石がゴロゴロしているところで赤石と河原、背景の山がベストマッチして雄大な景観をかもし出している。
そこからも出る魚、出る魚ことごとくイワナである。しかも食い気満々である。アマゴのように俊敏さのないイワナであるが、なぜかこの日は違った。石を離れ上流に毛バリを迎えにいくようにして毛バリをくわえるのである。ポイントを離れずに居食いするか、せいぜいわずかに下流に下って毛バリをくわえるあのイワナがである。
数を数え出してからから32匹目まできた。釣っては逃がし、釣っては逃がしの繰り返しである。ここからもまだ際限なく釣れるだろう。どこに打っても釣れるという予感がする。不思議な日である。初めてである。どこにこんなにイワナがいたかと思えるほど沸くように出てくる。赤子の手をひねるようなテンカラもここまで釣ると、面白さがつまらなさに変わるときが来る。もう十分だ。これ以上釣ったらいけない。そんな気持ちがふっと心をよぎったのを潮時に竿をたたんだ。
この日、アマゴの顔をみたのは最後の最後、すでに陽が暮れて山に早い春の夕暮れが訪れたときになってアマゴが2つ出ただけであった。イワナに遠慮に遠慮を重ね、とうとう辛抱できなくなって出てきたとしか思えないような2匹であった。そういえば淵で群れていたアマゴの動きにすでにその気配があったのかもしれないが、それは後付けであってアマゴの様子をみてイワナの出口がわかるほどの眼力はない。おそらく水温がコンマ何度下がったかの微妙な変化なのだろうが、実に不思議な体験であった。
その経験があってからそこを通るたびに淵を覗くのだが、みるたびごとにアマゴの数は少なくなり、あるときとうとう1匹の姿も見なくなった。それに呼応するかのようにテンカラの仲間うちで、釣れたよという知らせがめっきり少なくなった。無論私もである。季節は5月も半ばを過ぎていた。
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