肩の力を抜いてみたら |
軽い気持ちでいこう 「先生は顧問なんだから、練習に来て下さいよ。コモーン」と冬に逆戻りしたような寒いギャグを学生が言うはずないが2年ぶりのボウリングである。
こんな調子で2ゲ−ム目は188点。さすがにテンカラ竿より重いものを持ったことのない身体では、つけもの石を何回も投げる手がシンドクなってきて3ゲーム目はスコアが落ちたが、それでも169点である。どうしちゃったのよ。
理由は簡単。話は嘉永元年ボウリングが長崎ではじめて…、そんな昔ではない前の晩のことである。酒の席でたまたま横に座った人がスポーツ心理学の先生で、ご自身ゴルフがたいへん上手い。そんな関係でプロゴルファーの心理カウンセリングもしている。
「いやぁ、インフルエンザで寝込んでしまって。多少よくなったので、まぁ途中でリタイアしなければいい程度で軽い気持ちでラウンドしたんですよ。そしたらなんとハーフで34ですよ。」 「げぇげぇー。34! プロ顔負けじゃないですか」
急に釣れだしたのだ。水温が上がって活性が高くなったのだろう。これから釣れそうだ。
ところがすでにおわかりのようにぜんぜん。不思議なくらい出ない。あんなに簡単に釣れたのにヤル気を出したとたんにパッタリである。釣ったるゾと余りにやる「気」を送ったのでアマゴも気おくれしたのかもしれない。
万事、肩の力を抜いた方がいいようだ。肩の力を抜くのは難しい。無心とか無欲ということが言われる。何も考えない状態で行うことだろう。一瞬のうちにことが決まるものは特にそうだ。 アドレスする。
スポーツでは力まず、無心のときこそいいプレイができる、いいフォームが身につくとする伝統がある。プロ野球にもかっての名選手が前の晩に酒を飲んで二日酔いでベロベロになった状態で打席に立ったら、その日はホームランを連発したなどという豪傑伝が残っている。
この手の話は誇大にいい伝えられる。たまたまそんなことがあっただけで、酒を飲んで打てるなんて水島新司の漫画の世界だけだ。こんな話を先輩から聞かされるプロ野球選手もいい迷惑だろう。 昔、大学時代のバレーボールのときのこと。スパイクのフォーム矯正で先輩から猛烈にしごかれた。立てなくなるまでスパイクを打ち続けるのだ。もうダメという状態で真にいいフォームが身につくというである。
ヘロヘロ状態で打ったスパイクに「石垣、それだ! そのフォームだ。今のフォームを忘れるな」の先輩のアドバイスがとんだ。私はもう疲労困憊、半死半生で自分がどんなフォームで打ったかなんて憶えていない。ただただ早く終わってほしい、この苦痛から逃れたいの一心である。だから、この練習でフォームが良くなったとも思えなかったし、その後に役だつこともなかった。今は苦痛の記憶として残っている。
集中しろとも言われる。「集中!」なんて大声で言われると誰もが背筋をシャンとのばして、目をカッと開いたりして、いかにも集中しているぞというポーズをとる。サルだって「反省!」と言われれば反省のポーズをとる。
スポーツ心理の先生の話では集中するとはリラックスすることらしい。リラックスすると集中するのだという。集中しなければと思うことで肩に力が入り、背筋がピンと伸びるのは、集中ではなく固くなることだという。固くなるとギクシャクする。 してみると、肩の力を抜くということと集中することは紙一重なのだという気がする。気がするだけできるわけではない。テンカラでも肩に力が入るとろくなことはない。ふと気がつくとそんなに開いたら花粉症がひどくなるくらいカッと目を開いて、水面に穴があくくらい力んでいることがある。 そんなときほど合わせが強くて合わせ切れとか、竿を折るとか。
あまりこちらに釣る「気」があると魚も殺「気」を感じてしまうこともあるのかもしれない。昔から言われる木化け、石化けも殺気を出さずに自然の一部になれという教えだろう。
だから「俺は釣る気なんかないんだから、一日遊んでくれればそれでいいんだかんね」なんて軽い気持ちでいればいいのかもしれないが、そう思うことにしょうと思うことで肩に力が入っていたりして。ウーン難しい。
水窪川に夕暮れがきた。もう少しでおしまい。一日歩いて結構疲れた。これが最後のポイントだ。ヨォォォーシ最後に1匹だ。毛バリは石裏にスッと流れ、出る予感がした。 「それ出ろ」 |