腰痛のデパート(2

 

ぐちゃぐちゃの腰

 

40代、50代と歳をとるとともに当然、腹筋、背筋など腰を支える筋力は衰える。何度もギックリ腰をやった。その都度、お灸をしてとりあえず痛みを軽くする。

 

何度もお灸をしたので腰はお灸の痕で月のクレーターのようになる。普通の腰痛ベルトでは弱いので、スポーツ選手用のガッチリしたものを使うようになる。

 

60を越える頃から太ももの前面が痺れるようになってきた。これはひょっとして脊柱菅狭窄症? 次第に痺れは強くなりいわゆる電柱1本分になる。

 

歩けるのは電柱と電柱のおおむね50mである。50m歩くと足が痺れて歩けない。腰をかがめて休むと痺れがとれるので再び歩けるようになる。

 

典型的な脊柱菅狭窄症の症状である。テンカラをしているときもだましだましである。痛いと言えば同行している仲間に気を遣わせることになるので、口に出さないようにした。

 

あまりに痺れるので背骨専門の病院に行く。

 

MRIの結果、脊椎分離が原因で第4腰椎が前(腹側)にすべり出していて、このため脊柱菅が狭窄し神経を圧迫しているとのこと。3次元CTで見ると第4-5腰椎がぐちゃぐちゃになっているのがわかる。

 

4-5の間に脊椎分離、椎間板ヘルニア、すべり症、脊椎管狭窄が起きているようだ。つまり腰痛の原因が揃った腰痛のデパートなのだ。これはこの病院では重度に分類されている。

 

医師にとっても珍しい患者らしく「手術しかないでしょう」という宣告は、私には珍しい患者を手術できることが嬉しいように聞こえた。私もこの状態なら何をしてもダメと納得してお願いしますと即返である。

 

20092月、浜松で行われた「テンカラサミット2009」の2日後に手術した。2月なら4月のテンカラシーズンには間に合うからだ。

 

全身麻酔で意識がなくなるとき

 

手術は全身麻酔である。私には麻酔が効いて意識がなくなるとき、いったいどうなるのか興味があった。

 

それは日々寝るとき、意識がなくなる瞬間は「あぁ、眠る・・」やがていつのまにか寝ているが、麻酔の場合はそれとは違うのか確かめようと内心、楽しみだった。

 

さあ、いよいよ手術だ。少しワクワクする。医師が麻酔を注入する。

 

「今、入れましたよ」

 

「はい」

 

「お名前は?」

 

「石垣です」

 

「どこに住んでますか?」

 

「豊田市です」

 

「豊田なら香嵐渓(こうらんけい)に行きますか」

 

「はい、行き・・・・・・

 

行きま、までは聞こえていたが、声が次第に小さくなり、やがて・・・・無。

この間、10秒だったか20秒だったかわからない。

 

眠りに落ちるときとは違う感覚である。眠りに落ちるときは、あぁ寝る、と思った後、いつの間にか寝ている。

 

喋りつづけているなら眠らない(眠れない)はずだが、麻酔では喋ろうとしても言葉が出ないのと、言葉がフェードアウトしていく感覚になり、眠りに落ちるのとは明らかに違うように感じた。どうでもいいことだが私には新鮮な体験だった。

 

私の場合、第4-5の椎間板がほぼないので、骨の一部を削り、椎間板に挿入する。骨がやがて増殖し第4-51つの椎骨にすることである。

 

さらにこれ以上前にすべらないように2本のボルトで第4、第5を固定する手術である。積み木のブロックに釘を打つようなものである。

 

あいちせぼね病院HPより

 

手術の中では重度になるようだ。腰を切開するとともに6箇所から内視鏡を挿入した。このため背中には内視鏡の痕の6つの傷があり、手術後はあたかも真田の文銭のようであった。

 

麻酔から醒めるとき

 

手術は3時間で終わる。麻酔から醒めるとき、自分が何を言うか、あらぬことを言う のではないかと心配していた。

 

というのは、ずっと以前、甥が手術で胆石(あるいは腎臓結石)を除去するとき、腹を切った。手術には私が立ち会うことになった。

 

甥が麻酔から醒めるとき「オーイ、1年生、水持って来い」と病室にこだますような大きな声で言うのだ。

 

当時、甥は大学3年生で強豪校のラグビー選手である。おそらくラグビー中に脳震盪を起こした選手がいて、1年生に頭にかける水を持ってこいと指示する夢を見ていたのだろう。

 

そんな経験があるので麻酔から醒めるとき、あらぬことを言って付き添いの家内に聞かれるのではないかと心配だった。昔の彼女の名前を呼ぶのでは。

 

良子、悦子、キヌ子、美智子、和子、美佐子、真理子、美恵子、華子、明子、恵子・・昔つきあった女性の名前である。すべて子がつくところが時代を感じさせる。

 

キャサリン、マーガレット、イザベル、マリー、ナターシャ、ミーシャ、ここまで言うと嘘とわかる。

 

幸い、口走ることなく、ひたすら痛い、痛いと言っていたらしくホッとする。

 

腰の5cmの切開部には血抜きのドレインが挿入されていて背中に6箇所の内視鏡痕である。圧迫止血するために上向きに寝ている。

 

麻酔が醒めるともに痛い、痛い。痛みには我慢強いが、さすがに我慢できずに痛み止めをお願いする。

 

手術から1日後には歩けるようになり、4日後には退院できた。その後は次第に回復し、4月からはテンカラも再開できた。脚の痺れはまったくない。ときどきの腰の痛みは腰痛ベルトでしのぐ。

 

定期的な検査で第4-5腰椎に挟んだ骨が増殖し、2つが1つの椎骨になっていること、さらに第4-3腰椎もつながりつつあるとのことで順調。

 

腰の骨が1本の棒のようになっているので腰の柔軟性がなくなる。医師からは身体が硬くなるとは言われていたが、実際にあぐらをかくことができなくなる。

 

後ろにひっくり返るのだ。身体が硬くなるとあぐらもかけなくなる。

 

生涯付き合うことになる(たぶん)

 

2009年に手術して20171月まではそれなりに生活に支障はなかった。ところが名医の・・という番組で腰痛を軽くするというストレッチをしたのが間違いだった。

 

5から第3まで1本の骨になっているところをストレッチで曲げることになったので、どこかに傷害が出たのだろう。

 

残念ながらテニスができなくなった。錦織と対戦してコテンパンにやられて、もうこりごりしたあの日がなつかしい。

 

もう相撲もできない。貴乃花との勝負は五分五分だった。ウソばっかり。できることは制限されたが、テンカラができるならよしとしよう。

 

痛みが出てからほぼ2年。痛みはこのまま死ぬまで続くのだろう。歳をとって、さらに痛みがひどくならないことを願うばかりである。

 

死んで棺おけに入れられるとき、痛い!と叫ぶかもしれない。「お父さん、まだ生きてる!」

 

2本のボルトはチタン製で高価なようだ。焼かれて骨になってもボルトは残る。ボルトをめぐって子供たちの間で争いがおきる。これを骨肉の争いと言う。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

お見舞いは甘いものでお願いします。年内、受付けています(笑)