【渓流のつり】再読

 

外出自粛要請が出ているこの機会に、【渓流のつり】(つり人社 昭和40年、1965年初版)の「ヤマメの毛バリづり」(杉本英樹)を読み直してみた。今から55年前の本である。

私が餌釣りの参考に初めて手にした本である。私が買ったのは第7版(昭和47年、1972)なので48年前。

最初は餌釣りの参考にした本だったが、地元の渓流で初めて毛バリ釣りを見て、その威力に驚き、そういえばあの本に毛バリがあったなと読み返した。そこから 一字一句、目を皿のようにして読んだのが杉本さんの「ヤマメの毛バリづり」の項である。

著者の杉本英樹さんは長野県木曽福島の開業医で、地元に伝わるテンカラを基にした、自身の毛バリつりを紹介したものである。

60年前の毛バリつり

毛バリつりを詳細に纏めたおそらく最初の本ではないかと思う。本になったのが55年前なので、それ以前の60年くらい前の毛バリつりである。 読み返してなるほどと思うことがいくつかある。

1. 杉本さんの木曽福島では毛バリつりを「テンカラ」と読んでいたが、本にはテンカラの言葉は一つも出でこない。

推測になるが、その頃は関東周辺では毛バリつりは「毛バリ」「毛バリつり」と呼ばれていて、テンカラは全国にいくつかある呼称の、木曾の一地方名だったので、毛バリつりにしたのではないか。

2. 杉本さんを知った山本素石さんが杉本さんに師事し、それをもとにした本が【西日本の山釣】(釣りの友社 昭和48年初版 1973)である。

素石さんは、この本で毛バリつりを「テンカラ」としている。この本を端緒として毛バリつり→テンカラとして広まるようになり、今ではテンカラは渓流の毛バリ釣りを表す呼称になっ ている。

3. 木曾はヤマメではなくアマゴであり、木曾ではタナビラと呼ばれ ている。しかし、当時はヤマメもアマゴも区別がなく、ひっくるめてヤマメと呼ばれていたので「ヤマメの毛バリづり」にしたと思われる。

私の郷里の静岡はアマゴ域であるが、私がアマゴを知った60年以前はヤマメと呼んでいた。ヤマメとアマゴを区別するようになったのはそんなに昔のことではない。

 

 

ヤマメは水面に出る

60年前なので、現在と竿や仕掛けが違うのは当然であるが、魚の出方と合わせに主題があり、魚の出方を図にするなどし、そのわけを多くのヤマメは水面に出る からとしている。

水面で掛けるのが毛バリつりであり、毛バリを10cm以上沈めるのは特殊な場合であり、毛バリつりの本道をはずれるものであるとの趣旨が書かれている。

そう言えば、私がテンカラを始めた45年前、きっかけはこの本からだったので、ヤマメ(アマゴ)は水面に出るものであり、そのため水面で掛けることを試行錯誤して いて、毛バリを沈ませて糸フケで合わせるなどしたことがない。

ところが現在はどうだろうか。ヤマメが図のように水面に出ることは少ない。それはよほど活性があるときで、多くは水面直下、あるいはさらに10cmくらい沈んで流れる毛バリをくわえるのがほとんどである。なぜなのか?

養殖魚と多くの釣り人

私は魚の養殖と釣り人が増えたのが理由で、魚が水面に出ることが少なくなったのではないかと思う。

奥多摩でヤマメの養殖に成功したのは昭和36年(1961)と言われている。しかし、成魚放流、稚魚放流が一般化するのは1980年代になってからであり、本の当時、釣れるのはすべて天然魚 (野生魚)であったのは間違いないだろう。

天然魚は自然の餌をとらなければならないが、養殖魚はペレットを食べる。餌は自ら獲るものではなく上から落ちてくるものであり、水面に出なくても水中で食べればいい。

これを代々、ずっと繰り返してきたので魚の習性が変ってしまったのでないかと思う。

それと釣り人の増加である。本の当時なら、まず釣り人はいない。魚も警戒心がなく水面に出る。しかし今では桁違いの釣り人である。連日の釣り人で、魚は警戒し、おいそれ と姿を見せることがなくなったのではないか。

どうでもいいことかもしれないが温故知新である。昔を思い、今をみつめる。昔がそうであったとしても、昔に戻ることはできない。今は今で楽しみを見いだせばいい。

外出自粛の春、テンカラシーズンを前に思ったことである。まもなく藤の花が咲く。コロナの終息を願うばかりである。