釣欲がないと釣れるのか

 

殺気と釣気

 

殺気という言葉がある。辞書によれば殺気は人を殺そうとする気配。はげしい敵意に満ちた気分であり、「殺気がみなぎる」などと使われる、としている。

 

殺気があるなら釣気(ちょうき)もあるだろうか。辞書にはない。辞書にはないが、なんとしても釣りたい強い気持ち(釣欲)は誰にもあるので、釣気は釣欲が出ている気配とでも言えばいいだろうか。

 

私も集中しているときは、いつものゆるい雰囲気ではないと言われることがある。こんな時は釣気が出ていて、その気配を仲間が感じているのかもしれない。

 

釣りたい気持ちに反して釣る気がまったくないときに釣れることがある。

毛バリを垂らして上流に歩いていたら、グッと引かれた。ナニ!と振り返ればアマゴが食っているではないか。なんと今、歩いてきたところなのに。誰しもこんな経験は一度ならずあるだろう。

 

3匹続けて

 

私には釣欲がまったくないとき3回続けて釣れたことがある。それは浜松近郊の渓流である。季節は5月。清々しい晴天の日であった。昼近くなっていたが、それまで20cm足らずのアマゴが2匹釣れただけの活性のない日だった。

 

知り合いが林道から「Fさんがもうじき来るから」と告げて上流に歩いていった。ほどなくしてFさんが合流した。竿を持っていないところをみると釣る気はないようだ。

 

合流すると開口一番

「先生、うちの小僧、高校どこにしたらいいずら」「先生とこの愛工大名電もいいと思うんだけど」

 

進学の相談である。Fさんの息子は野球がうまいことは知っていたが、ちょうど高校進学にあたるようだ。

 

「愛工大名電もいいと思うよ。監督さんの指導がいいから甲子園の常連だしね」

 

私は膝くらいの深さの瀬の左岸に立って、竿は横に寝かせていた。話に集中していたのでまったく釣る気がない。

 

すると手にゴツ、ゴツ。見るとアマゴが食いついているではないか。合わせもしていないのにしっかり食っている。おそらく毛バリが水面で跳ねていたので虫と思ったのだろう。

 

「なんだよぉ。Fさん、釣れちゃったよ(笑)」

 

その後もFさんから進学予定校の話がつぎつぎに出る。するとまたゴツゴツ。見ればまたアマゴが食いついている。一歩も動かず、同じところで毛 バリが流れにもまれているだけなのに。

 

「また釣れちゃたよ(笑)」

 

Fさんは息子を社会人野球やプロ野球まで視野に入れて高校を考えているようで真剣な相談である。私も少ない知識で話に乗る。

 

またまたゴツゴツである。またまたアマゴが食いついている。これで3匹目である。合わせなどしていない。毛 バリなど見ていないので合わせのしようがないのだ。

 

「なんだよぉ、また釣れちゃったよ」

 

木化け、石化け

 

3匹となると笑いというより、一体どうしたんだと驚きが先にたった。嘘のような話であるが、事実である。

 

Fさんの相談に集中していたのでまったく釣ろうという気はなかった。

・竿を横に倒していたので毛バリは1カ所で跳ねていた。

3匹が同じところから毛バリに食いついてきた。合わせはしていない。

 

釣る気がないときに限って毛バリを食っていることはよくあるが、続けて3匹、それも1カ所でとなると偶然を越えて何かあるのではないかと思ってしまう。

 

釣りキチ三平の「毛バリ山人の巻」で山人(さんじん)は三平との毛バリ対決で最後に「木化け、石化け」を使った。木になり、石になることで人の気配を消す、つまり自然と一体になることが大事であることを教えている。

 

NHKのテレビ番組でセミの研究者が地面を掘ってセミの幼虫を探しているとき、研究者のすぐ横をリスなどの動物が抜けていった場面があった。あのとき研究者からは人の気配が消えていたのではないかと思う。

 

釣る気満々のとき、魚は釣り人の気配を感じ、釣る気がないときは気配を感じないので釣れるとも言えるが、気配が水の中にも伝わるとは思えず、魚が気配を感じることはないと思う。

 

矢口高雄 釣りキチ三平 7巻 p146-147より

自然な動き

 

ではなぜ3匹続けて釣れたのだろうか。このとき毛 バリは水面を1カ所でピョンピョン跳ねていた。私は毛バリを見ていないし、ましてや操作もしていない。

 

逆に何の操作もしていないので食ったのではないか。たまたま毛バリの動きを意識しておらず、何もしなかったためにそれが自然な動きだったからではないだろうか。

 

つまり、食え、食え、虫だぞ!と虫の動きを真似ても、それは真似たつもりであって、魚からすればそれを不自然な動きと感じるのではないだろうか。

 

毛バリが自然に流れるようにと意図的に操作しても、魚からすれば不自然なもので、それで食う魚もいるだろうが、それはわずかであり、まったく意図しなければもっと釣れるのかもしれない。

 

魚にとっての自然とは

 

釣欲、これを釣りたい強い気持ちとすればその気配(釣気)は人には伝わるが、魚には伝わらないと思う。

 

釣欲がない状態は自然にまかせた状態と思う。自然に流れるのはハリスなしの毛バリである。これなら魚は食う(くわえる)だろう。魚にとっては自然だろうから。

 

魚にとっての自然、これがわからない。ハリスがないなら自然に流れるが釣りにはならない。自然に流れるだろうとハリスを細くしても自然ではない。

 

釣欲のないとき釣れるとすれば、釣欲のない状態を意識して作れるのだろうか。

 

「アマゴさん、私、釣る気なんかないですから」と思うこと自体、すでに釣欲が出ている。

 

無欲、無心になれば釣れるのだろうか。どうすれば無心になれるのか。釣欲のかたまりの私には無心なテンカラはできそうもない。