瀬畑さんの写真はつり人社「渓流」創刊40周年より
ヤマメはゆっくり合わせたい
『渓流』(つり人社)創刊40周年に昨年8月に亡くなった瀬畑雄三さんの追悼記事が掲載されている。享年83歳、私とは6つ違いだった。
テンカラ釣りの先達としてテンカラを世に広めたこと、源流テンカラでは必須の未開ルートの開拓、さらに源流泊の知恵を伝えた人である。またブナ林保全活動をかげで支えた功績も大きい。
瀬畑さんを初めて知ったのは瀬畑さんが45歳、私が39歳のときである。
その1年前、私の実験をもとにした「アマゴが毛バリをくわえている時間は0.2秒」がNHKのウルトラアイで放送された。
翌年、雑誌『フィッシング』(廣済堂)で「ヤマメはゆっくり合わせたい」の記事が出た。ヤマメは0.2秒なんかで
吐き出さないからゆっくり合わせればいいというもので、鬼怒川の大きなヤマメをつかんでいる写真の主が瀬畑さんだった。瀬畑さんを初めて知ったときである。
当時、地元のピシャンと跳ねる小さなアマゴを相手にしていた私には、出た瞬間でも遅いと思っていたので、こんなヤマメもいるのかと大きなヤマメに驚くとともに、ゆっくり合せて本当に掛かるのかという疑問もあった。
翌年、二人を対談させたら面白いだろうという『フィッシング』の企画があり栃木で初めて瀬畑さんにあった。
私より6つ歳上とは言え、まだ40半ば。髭もたくわえず、ハンチング帽を被り、がっしりした体格。ゆっくり合わせればいいんだよと語尾が上がる栃木なまりで話す。
ゆっくりした語り口、ときどきニコッと目を細める笑顔に人柄の良さが出ていた。
対談は早合わせと遅合わせのどちらがいいかというもので、それぞれのフィールドの違いと経験をもとにしているので結論が出るようなものではなかったが、瀬畑さんは自分の考えを押しつけようとはしなかった。
初対面にかかわらず、瀬畑さんにすっぽり包み込まれる気がして、心地よい対談になった。
では一緒に釣りに行こうと向かったのが箒川である。当時、すでに源流テンカラの先駆者であり、自作の太い撚り糸を使っていた瀬畑さんである、
3.3mの竿、同じ長さの撚り糸のライン、虫の色をまねた茶色の毛バリだった私の小づくりの仕掛けをみて、どう思ったかわからない。しかし存在感が圧倒的に違った。
テンカラの達人パートU
その頃、テンカラの合わせは早合わせか、遅合わせか論議になったことがある。早合わせを主張するのがすでに鬼籍の人である堀江渓愚さんである。
一方、ゆっくり合わせればいいと言うのが瀬畑さんである。
二人の主張と釣りをビデオにしたのが『テンカラの達人パートU』である。1992年のことである。
私は行司役を務めた。主張にはともに一理あり、行司としては真上に軍配を上げざるを得なかった。
合わせは刹那である。刹那を時間単位で早い、遅いを分けることはできない。
出た! 毛バリをくわえた瞬間に合わせをするのが早合わせ、出た!と思ったら、ちょっと間をおいて合わせるのが遅合わせとすることができる。
このちょっとの間はわずかなため、これを一呼吸とか、おじぎしてなどと表現する。しかし、一呼吸したり、おじぎしていたら毛バリを吐き出すのがほとんど
なので、ゆっくりでいいわけでもない。
二人の主張はよってたつところの、ヤマメ、イワナ、魚のサイズ、フィールド、スレ具合など違いによるもので、それぞれ自分のフールドをもとにした考えなので、どちらがら正しいというものではない。
自己融着テープの発案
その後も取材や、個人的に栃木に足を運び、一緒に釣りをした。『科学する毛バリ釣り』(廣済堂)の写真撮影でトロッコ電車に乗って、黒部川の黒薙本流の釣りは想い出に残るものとなった。
『フィッシング』の取材で私の地元、足助の神越川で一緒に釣りをしたこともある。イワナはおらず小さなアマゴだけなので瀬畑さんのシステムでは川が小さすぎたが良型のアマゴを見事に釣った。さすがと感服した。
その頃、瀬畑さんから毛バリを自己融着テープで巻く方法を教えてもらった。これは便利だ。今、私は自己融着テープで巻いているが、そのもとは瀬畑さんである。瀬畑さんなくしては自己融着テープの毛バリは世に出なかったかもしれない。
その頃、瀬畑さんは白いハックルが10円玉ほどある毛バリを使っていた。私はタンポポ毛バリと名付けた。瀬畑さんのパワーのある鞭のような撚り糸ラインだからこそ飛ぶ毛バリである。
いつの頃か、使ってみて、と何本かくれたが内心ではこんな白い羽根の虫なんかいないし、しかも大きすぎる。釣れるはずない思って、長い間、使うことはなかった。
その頃、私は毛バリの迷宮をさまよっていた。釣れないのは毛バリのせいだ。もっと釣れる毛バリがあるはすだ。いろいろな毛バリを巻けば巻くほど、毛バリに自信が持てなくなっていった。
ある日、自分の毛バリを使い果たし、残るはタンポポ毛バリだけ。どうせ釣れっこない。ところが釣れるではないか。その日、タンポポ毛バリで何匹か釣った。
そうか、とても虫とは思えないタンポポ毛バリ。これで釣れるということは、虫そっくりに巻かなくていいのだ、それらしければ釣れる。
目からウロコ、ストーンと腑に落ちた日だった。瀬畑さんの毛バリがなければさらに迷宮をさまよったかもしれない。
テスターの頃
瀬畑さんとの釣りは栃木の里川だった。ある時期、瀬畑さんはD社のテスターをしていたことがあった。
ある日、テストするんだと言って、例の太い撚り糸でテストロッドを振った。何回も振っているうちに先端がポキンと折れてしまった。
「だめだ、こんな竿」と言ってテストは終了。見ていた私は、「そりゃラインが太すぎるからじゃない」と言ったが、そんなことはない、このラインが振れるような竿でなくてはと、強い口調で言ったのを覚えている。
D社の釣り番組に瀬畑さんの北海道、道南のテンカラがあった。このときはスゲ笠ではなくD社のキャップをかぶっていた。
石を拾って毛バリを研ぎ出したので、うちにもシャープナーがあるので、それを使ってほしいとスタッフが言ったというエピソードがある。
メーカーのキャップをかぶり、竿のPRをするのは瀬畑さんの本意ではなかったようでテスターだった期間は短い。
爆走する
若い頃の瀬畑さんの運転は荒かった。
暴走とも言える爆走である。私は左手で助手席のグリップをつかみ、緊張のあまり足をピンと伸し、身体をのけ反らし耐える。
だいじょうぶだから、と栃木なまりで言うが、大げさではなく事故で死ぬかと思ったこともある。
時間の感覚も違っていた。夕マズメ、ちょっと移動しよう。どこまで? ちょっと動くだけだから。ちょっとだから5分ぐらいかと思えば30分である。着いたときにはとっくにマズメは終わっていた。
東京に戻るから乗りなよ、と言うので助手席へ。埼玉を通る頃から雨が降り出した。なんと運転席側のワイパーがないのだ。
ワイパーがないよ! だいじょうぶだから。
身体を傾け助手席側のワイパーごしにとうとう都内まで。気の小さい私は事故を起こすのでないかとヒヤヒヤしていた。ことほど車や運転については豪快で無頓着であったように思う。
源流への誘い
源流をやらないかと誘われたことがある。
源流? その頃、すでに瀬畑さんの源流テンカラや源流遡行はビデオや雑誌で紹介されていたので知っていた。あの源流へいくのか。
「大丈夫だから、絶対に無事に帰すから」とくりかえす瀬畑さん。
小心ものの私にはあの源流の、あの滝壺を高巻くことを想像するだけで怖い。度胸がない。
ビデオに幅1.5mくらいの激流を跳ぶシーンがある。跳んだ先は岩盤で着地できるのはわずか20cmくらいの幅しかない。
躊躇するメンバーに対岸から「跳べぇ!」と大声を出すシーンが映っている。普段の瀬畑さんではない。
いや、子どもが3人いて仕事が多忙など…モゴモゴと暗に行かないことをほのめかした。
私の小心を知ったのだろう。その後、瀬畑さんから源流の話は出なかった。その頃には私の腕も渓流でも里川でもそこそこ釣れるようになっていたので、あえて源流でなくてもという気持ちもあった。
源流行を断ってからは瀬畑さんとのテンカラはなくなった。
それゆえに濃密な体験はないが、今の私があるのはどこかに瀬畑さんの影響がある。それが自己融着テープだったり、タンポポ毛バリだったりするが、これらは些細なことである。
源流テンカラを広め野営術を広めた偉大な人である。誰もができないことを開拓した人への尊崇の思いは、
研究において誰もやらない未開の分野を開拓するチカラとなっていた。
最後にお会いしたのは2023年2月の浜松での集いである。すっかり小さくなったが、瀬畑さんに挨拶する人の多さは今も偉大なるカリスマであることを物語っていた。
生者必滅、会者定離
瀬畑さん、瀬畑さんにはもう少し長生きして後進を育てていただきたかったと思います。
やがて私もそちらに行きますから、そのときはお互い出会った頃の若い姿でテンカラしましょう。
源流も行きますよ。怖くありません。落ちても、もう死ぬことはありませんから。 |